九州大学 整形外科学教室
九州大学大学院医学研究院臨床医学部門
外科学講座整形外科学分野

当教室について

教授あいさつ

平成28年10月1日をもちまして、九州大学医学研究院整形外科学分野の教授に就任いたしました。初代教授の住田正雄先生から神中正一先生、天児民和先生、西尾篤人先生、杉岡洋一先生、岩本幸英先生と引き継がれ、私が7代目となります。改めて教室の歴史を見直しますと、その責任の大きさに身の引き締まる思いがいたします。これからの14年余りの時間を指導者として教室の発展のために尽くす覚悟です。今回、私の抱負をここに記します。
中島 康晴
整形外科医の育成
教室の財産は教室員そのものです。教授の重要な使命は、若き教室員を立派な整形外科医に育てることです。九州大学整形外科ではこれまで、教室と関連病院が一丸となってローテーターを育ててきました。従来の1年ごとのローテーションを基軸とした教育システムを、今後も継続・発展させて行く所存です。6年間の研修期間には医学的知識と技術の習得はもちろんのこと、学会発表などを通じてリサーチマインドを持つように指導しなければなりません。関連病院の先生方におかれましては、ローテーターが有意義な研修をできるように是非よろしくお願い申し上げます。そして、若い教室員が九州大学整形外科で学んでいることを心から誇れるように育てたいと思っております。 知識や技術に加えて、若い教室員には患者に対する思いやりや礼儀を大切にするように指導します。患者の信頼を得ることは決して特殊な努力を要するものではありません。挨拶をする、きちんとした身だしなみをする、入院患者がいれば毎日一度は顔を見せて声をかける、外来では電子カルテの方ばかり見ずに患者の目を見て話す、などなど当たり前なことの積み重ねです。このような基本的な姿勢をしっかりと身につけさせたいと思います。
リーダーの育成
上記とともに、整形外科学の次世代のリーダーを育てる使命があります。リーダーとなる人材はphysician scientistとして、研究と臨床を両立しなければならず、専門分野の臨床に精通していることはもちろん、基礎・臨床を含めた研究業績が求められます。現在、教室には股関節、膝関節、脊椎外科、骨軟部腫瘍、リウマチ、肩関節、手の外科、足の外科、小児整形外科、リハビリテーションの臨床グループがあり、研究グループとしてバイオメカニクス、腫瘍、大腿骨頭壊死、軟骨代謝、軟骨再生、脊椎・脊髄、骨粗鬆症があります。いずれのグループも活発に研究しており、2015年には教室関連で計70編の欧文論文がpublishされました。私の役目はこのactivityをさらに伸ばすべく、教官と大学院生がその能力を存分に発揮できる、やりがいのある環境作りをすることです。それは、個々の才能を活かすことができる + 好奇心を満たす仕事ができる + 得られた成果が周囲に認められる + お互いが仲間であり、かつライバルである環境です。そして若い教室員が研究をする先輩に憧れて、自分も研究をしてみたいと思う「夢のある教室」を作りたいと思います。
九州大学整形外科のスケールメリット
欧米発の最近の臨床研究は、registryや多施設研究をベースとした圧倒的な症例数をもつ研究が多くなりました。もはや1つの施設の症例数ではエビデンスの構築に不十分な時代になったと言えます。一方、九州大学整形外科と48にも上る関連病院は、グループとして考えますと巨大な組織です。例えば、2014年に行われた手術総数は29498件を数えます。もし、この規模で臨床研究が実現できれば、きっと素晴らしいものになるであろうと想像します。既にいくつかの研究が動き出しています。松本嘉寛先生と小山田亜希子先生が行っています「骨粗鬆症性大腿骨近位部骨折の広域ネットワーク研究」は関連病院17施設による多施設研究です。2016年9月現在、1200例を超える登録数に至っております。関節リウマチに関しては、整形外科・内科にまたがる多施設研究で1000例以上の生物学的製剤使用例の蓄積がなされています。将来的な展望ではありますが、是非、私は関連病院の皆さんと協力し合って、いくつかの分野で九州大学整形外科発の臨床研究を実現したいと思っております。 私は平成2年に九州大学整形外科に入局しましたので、26年が経過したことになります。昔の西病棟3階で研修医をスタートした日々のことが懐かしく思い出されます。当時は杉岡先生が教室を主宰されており、全国から股関節疾患の患者さんが来られていました。平成10年以降は股関節およびリウマチ担当の教官として今に至ります。その18年間、教室は岩本先生の力強い指導のもとで、臨床・研究ともにさらに大きく発展しました。欧文論文数は大幅に増加しましたし、多くの指導者を輩出してきました。今回、母教室である九州大学整形外科教室の教授を引き継ぐにあたり、先人から教えていただいたことを大切にし、全力で教室を発展させていく覚悟であります。
平成29年1月30日
九州大学医学研究院整形外科学分野 教授 中島 康晴

教室の沿革

九州大学整形外科学教室は、1909年に開講した、日本で3番目に長い歴史を有する教室です。2016年で開講107周年を迎え、総入局者数は1098名、現会員数は819名、全国に排出した教授は25大学、計41名、日本整形外科学会学術総会開催は6回に及び、活発な学術活動を通じて我が国における整形外科の発展に貢献して参りました。 第2代教授の神中正一先生が著された「神中整形外科学」は、わが国の整形外科医のバイブル的な教科書として広く親しまれており、2013年に岩本幸英前教授編集により全面改訂が行われました。整形外科の教育・整形外科医療の普及においても、神中整形外科の発刊・改訂に加え、日本手の外科学会や西日本整形・災害外科学会の設立、わが国初の骨銀行開設、骨腫瘍登録制度の立ち上げ、先駆的な肢体不自由施設の開設など、枚挙にいとまがないほどの実績を残して参りました。先人が脈々と築き上げてきた107年の歴史を鑑み、教室員一同が引き続き努力を重ねております。
1920年(大正9年)頃 九州帝国大学医学部及附属医院 整形外科玄関 (九州大学整形外科学教室 開講百周年記念誌より)

100年通史

1909年(明治42) 5月24日 京都帝国大学福岡医科大学整形外科学講座開設
1911年(明治44) 4月 1日 九州帝国大学医科大学整形外科学講座と改名
1912年(明治45) 7月17日 住田正雄教授就任(34歳)
1913年(大正 2) 1月15日 外来診療開始
1926年(昭和元) 5月 5日 神中正一教授就任(36歳
1932年(昭和 7) 4月2-3日 第7回日本整形外科学会総会主催
1947年(昭和22)10月 1日 九州帝国大学を九州大学と改名
1949年(昭和24)4月9-11日 第22回日本整形外科学会総会主催
1950年(昭和25)10月15日 天児民和教授就任(45歳)
1953年(昭和28) 4月8-10日 第26回日本整形外科学会総会主催
1960年(昭和35) 4月 1日 教室開講50周年記念事業
1969年(昭和44) 6月12日 西尾篤人教授就任(49歳)
1982年(昭和57) 3月28-30日 第55回日本整形外科学会総会主催
1983年(昭和58) 8月 1日 杉岡洋一教授就任(50歳)
1989年(平成元)11月25日 故神中正一名誉教授生誕100周年記念事業
1992年(平成 4) 4月16-19日 第65回日本整形外科学会学術集会主催
1996年(平成 8) 8月16日 岩本幸英教授就任(46歳)
2009年(平成21) 5月14-17日 第82回日本整形外科学会学術総会主催
2009年(平成21)11月21日 教室開講百周年記念国際シンポジウム
2016年(平成28)10月1日 中島康晴教授就任(51歳)

講座開設まで

日露戦争が集結しポーツマス条約が結ばれた翌年の1906年(明治39)4月5日、日本で初めての整形外科学講座が東京帝国大学医学部に開設された(勅令第68号)。初代教授は田代義徳先生(42才)であった。同年4月23日には、京都帝国大学京都医科大学にも整形外科学講座が開設され(勅令89号)、初代教授は松岡道治先生(東京大学より赴任、36才)であった。 この2校に引き続き、日本で第3番目に整形外科学講座が開設されたのが九州大学である。その前身は、1886年(明治29)6月22日に設立された県立福岡病院で、同病院はその後、1903年(明治36)3月24日、勅令第54号により創設された京都帝国大学福岡医科大学として引き継がれた(図1)。
1903年頃の福岡医科大学の写真
図1 1903年頃の福岡医科大学の写真
当時の教授は、全て東京帝国大学から赴任しており、心臓の田原結節で有名な田原淳先生や、耳鼻科の久保猪之吉先生などがおられ、皆30代前半であったという。 早くから整形外科講座の新設を積極的に進めていた大学当局は、東京帝国大学、京都帝国大学に整形外科が設置されたのと同年の1906年(明治39)8月17日には、候補者として東京大学医学部佐藤外科助手であった住田正雄をまず外科学助教授として招聘し、9月7日、住田は外科学第二講座の分担を命ぜられた。そして、その3年後の1909年(明治42)5月24日、九州大学に整形外科学講座が設置された(勅令第142号)。東京大学、京都大学での設置から3年後、伊藤博文がハルビンにて暗殺されたのと同年のことであった。

講座開設当初

設置当時は、住田はドイツ留学中であり、最初は三宅速(はやり)、中山森彦両外科学教授が整形外科学講座を分担した。1911年(明治44)4月1日には、九州帝国大学医科大学整形外科学講座と名称が変更となり、翌1912年(明治45)7月17日、ドイツ留学より帰朝した住田正雄助教授が初代教授(34才)となった。 実質的な整形外科外来診療が開始されたのは1913年(大正2)1月15日であった。しかし当時は、教室とは名ばかりで、最初は旧病棟の2室しかなく、医局員も3名に過ぎなかったという。なお、第一例目の手術は1913年(大正2)1月16日に住田教授執刀で行なわれ、31才男性の腓骨膿瘍に対する掻爬術であった(図2)。 当時は、病院の拡張工事に予算がつかず、病室もない状態であり、大学総長の許可を得た上で市内の開業医の病室を借用していたという。同年12月8日皮膚科教室が新築移転となり、皮膚科の建物に、整形外科の教授室、研究室、医局、図書室等が入り、30名の入院患者を収容できる病棟(西三病棟)が開設された。その後、1916年(大正5)に耳鼻科が新築移転したのでその病棟を利用することができることになり入院患者を55名収容できるようになった。この時点で、これまで市内の病院に預けていた患者を全て大学へ収容できたという。
1903年頃の福岡医科大学の写真
図1 開講以来 100 年間の手術台帳が教授室に保管されている。第一例目手術は上記のように記載されている。
開講13年後、診療開始からは9年後の1922年(大正11)の教室員は、住田教授以下、助教授浅田為義(九大病理学教室出身)、講師内藤三郎(九大卒業)、助手阿部恭一(九大卒業)、別所正恭(名古屋医大出身、住田正雄先生御親戚)、名倉英二(九大卒業)の5名に加え、大学院生伊藤久治、海軍軍医学校より内地留学の鈴木諒、松本暢両海軍軍医少佐の総勢8名であり、教室にはマッサージ師は在籍していなかったという。この8名という人数は、当時整形外科学教室のあった東大、京大、九大の3大学のうちで、九大が随一であり輝かしいものであった。その当時、日本では整形外科学教室への入局はなかなかなく、一年間に一人の入局者があればよいほうであったという。さらに、日本整形外科学会は、まだ独立した学会としての活動はしておらず(1926年(大正15)4月に独立)、日本外科学会の一小部会として存在しており、整形外科の演題は外科学会3日間の最終日に、整形領域の演題のみが並べられる程度であった。1923年(大正12)になり、東京で最初の整形外科集団会が開催されている。

住田正雄教授時代

初代の住田教授は明治41年より3年間ドイツのLeipzig大学に留学し、関節外科はProfessor Erwin Payer、整形外科学をHoffa、骨病理学をKaufmannに学んだ。帰国後教授に就任し、整形外科学講座を担当した。整形外科診療開始後は、関節結核や脊椎カリエスの診断・治療に関する研究、ドイツ留学以来引続き行なわれていた骨系統疾患に関する研究、骨折や腱損傷に関する研究の他、骨移植に関する先駆的な研究を数多く行なった。また、関節授動術の研究をライフワークとしており、当時、化膿性関節炎などによる関節拘縮や強直はその発生頻度が高く、不動性の関節に可動性を与えることは極めて困難な時代であった。住田教授は、多数の自験例をもとに、強直した関節端を切除し、再癒合を防止するために遊離大腿筋膜を中間膜として挿入する方法を確立した。さらに、生体力学の重要性についても認識しており、工学部との共同研究をその当時から行なっている。その他、教室附属の工作所を設け、九大独自の治療装具の作成を行うなど、卓越した先見性を発揮した。 1923年(大正12)1月15日に開講10周年記念論文集を出版することになり東京の出版社に依頼していたが、折しも関東大震災にて被災、工場が破壊されたため、その翌年の1924年(大正13)11月に12編の論文からなる記念論文集を出版した(図3)。住田教授は1925年(大正14)8月、いわゆる九大特診事件のあおりを受け辞職、同年8月28日、その後任に浅田為義助教授があたった。その2日後の30日、附属病院の火災により、整形外科学教室は病室及び外来を残し、教授室、助教授室、医局、図書室、研究室、標本室等全て猛火に包まれ、貴重なる図書、記録、標本、機械等の大部分が粉塵に帰してしまった。浅田先生は、火災後の応急処置に尽力されたが、翌年4月、海外留学の途についた。
住田正雄教授
住田正雄教授
図3 12編の論文からなる記念論文集

神中正一教授時代

1926年(大正15)5月5日、第二代教授として神中正一先生が講座を担当した。その後、1950年(昭和25)に退官するまでの約25年間は、第2次世界大戦をはさんだ苦しい時代にあったが、ドイツ一辺倒であった当時の整形外科学に、フランス、イタリア、英国、米国の整形外科学を取り入れ、真の日本整形外科学を確立することに邁進し数多くの業績を残した。住田教授以来の教室の伝統である関節形成術においては、新しく開発した中間挿入膜JK(神中・河野)膜による術式を確立した。また、骨折治療の近代化、脊髄・脊椎外科、股関節外科、義肢、身体障害者の職業訓練、整形外科治療器材の開発、など整形外科学全般にわたり膨大な業績を残した。これらの業績は、「神中骨折治療学」、「神中整形外科学」、「神中整形外科手術書」、という著書として執筆されている。特に、「神中整形外科学」は今日においても改訂が重ねられ、我が国の整形外科医のバイブルというべき大著である(図4)。 その他、昭和25年には学士院会員に推挙せられ、日本整形外科学の発展に寄与した功績がたたえられた。また、昭和11年4月に、神中整形外科教室10年史の中で、神中教授は「整形外科学の現在及将来に就て」と題して、整形外科学の日本語々源からふれられ、運動器外科と整形外科、外傷医学と整形外科、不具児童療護事業と整形外科、運動医学と整形外科、などについて将来を展望している。また、教室開講25周年記念の同窓会誌の中で新入局者歓迎会上の挨拶として、力と徳の滋養を切望しておられ、そのために以下の4カ条を挙げている。 「いつ迄も好学の精神を捨てない事」 「思索を怠らぬ事」 「全力を打込む熱と忍耐」 「精確なる観察と洞察力を養成すること」 これらはいずれも、今の時代にもあてはまる貴重な教訓である。
神中正一教授
神中整形外科学 初版(昭和15年発刊)
図4 神中整形外科学 初版(昭和15年発刊)

天児民和教授時代

第三代の天児民和教授は、1945年(昭和20)新潟医科大学第二代教授として赴任していたが、1950年(昭和25)10月15日に九州大学整形外科教授が発令となり、同年11月20日着任した。整形外科学に脊髄損傷とそのリハビリテーションを含めた脊椎・脊髄外科をとりいれ、半月板を中心とした膝関節外科、骨系統疾患、骨軟部腫瘍や脊髄腫瘍など整形外科全般にわたり数多くの業績をあげた。また、当時ほとんどおこなわれていなかった骨、軟骨、筋組織の基礎的研究に道を開き、骨形成因子に関する広範かつ先進的な研究、リハビリテーションへの工学の導入など時代を先取りする新しい分野も開拓した。更に、昭和28年には骨誘導の研究から我が国最初の同種骨移植のための骨銀行を設立し、骨欠損を伴う疾患の治療に大きな進歩をもたらした。 また、天児教授は行政的にも卓越した手腕を発揮し、着任早々の1951年(昭和26)6月には、今日の西日本整形災害外科学会の前身である西日本整形災害外科集談会を創設し、学会誌「整形外科と災害外科」を発行して西日本地区における整形外科学の普及と発展に貢献した(図5)。また、全国に先駆けて骨腫瘍、骨系統疾患の登録制を敷き、今日の全国登録制の先鞭となった。さらに、1957年(昭和32)7月には日本手の外科学会を創設し、日本における本分野の発展に努力した。さらに、日本整形災害外科学研究助成財団の設立、西日本各地区の肢体不自由児施設の設立など、後生に残る多くの事業を成し遂げた。1960年(昭和35)には、教室開講50周年を記念して、業績集の英文独文誌を作成している。
天児民和教授
整形外科と災害外科の第一巻 (昭和26年発刊)
図5 整形外科と災害外科の第一巻 (昭和26年発刊)

西尾篤人教授時代

第四代の西尾篤人教授は、1954年(昭和29)6月に鳥取大学医学部整形外科の第三代教授として赴任していたが、1969年(昭和44)6月16日に九州大学教授として着任した。着任時は、折悪しくも全国的な学園紛争の最中であり、九州大学も例外ではなく極めて困難な状況下にあった。しかしこの中で教室をまとめ臨床・研究・教育の3つの柱を一時も停滞させることはなかった。 鳥取大学教授時代すでに多くの独創的な研究成果を挙げていたが、教授の終生のテーマであるペルテス病を中心に変形性股関節症などの股関節外科の領域においては、新しい治療法を世界に先駆けて考案した。中でも、寛骨臼移動術の開発は特筆されるべきものであり、今日においても臼蓋形成不全に対する標準的術式となり、寛骨臼回転骨切り術のルーツは本術式にある(図6)。また、転子間彎曲内反骨切り術の考案や表面置換型人工関節の開発も偉大な業績のひとつである。その他、内反肘変形に対する矯正骨切り術、肩鎖関節脱臼に対する鎖骨骨切り術、陳旧性モンデジア骨折に対する尺骨骨切り術など数多くの独創的な術式を生み出し、後の整形外科の発展に多大な影響を与えた。更に、ペルテス病の病因解明や治療法の開発、離断性骨軟骨炎の発生機序の研究においても優れた業績を挙げた。学内においては、文部省科学研究費で得た新しい機器を設置して臨床各教室での共同利用が可能な臨床中央電顕室を設立した。 また、1975年(昭和50)より厚生省特定疾患に指定された特発性非感染性骨壊死症研究班において、初代班長として全国の班員を統括し、世界をリードする研究基盤を確立した。1982年(昭和57)に第55回日本整形外科学会会長を務めるなど、多数の学会も主催した。
西尾篤人教授
寛骨臼移動術
図6 寛骨臼移動術は、寛骨臼を球状に掘り出し、これを主に前外側に 移動させることにより骨頭の被覆を改善し、関節症の進行予防を 目的とした画期的な手術法である。今日、広く行われている寛骨臼 回転骨切り術も、その基本的な概念は本 術式にある。(西尾篤人教授退官記念業績集より引用)

杉岡洋一教授時代

第五代の杉岡洋一教授は、1970年(昭和45)に米国ペンシルバニア大学に留学した後、当時の西尾教授の下、講師、助教授を歴任し、1983年(昭和58)8月1日九州大学整形外科学講座教授に就任した。西尾教授の薫陶を受けた杉岡教授は、股関節外科を中心に引続き研究を精力的に押し進め、特に、ライフワークとする大腿骨頭壊死症の基礎的及び臨床的研究においては、世界の第一人者であることは論を待たない。中でも、杉岡教授が開発した大腿骨頭回転骨切り術は、Sugioka Osteotomy として世界に広く知られ、世界で最も権威ある整形外科手術書、「キャンベル整形外科手術書」に、日本人として初めて収載された術式となった(図7)。海外における講演・公開手術は23ヵ国、60大学に及び、難易度の高い本術式をまさに世界中に広めた。また、変形性股関節症に対する転子間外反骨切り術を開発した。本術式も、従来の術式の欠点を見事に克服した優れた術式として広く知られている。教室においては、骨切りワークショップを毎年開催し、全国から参加した多くの医師に、教室が開発してきた寛骨臼移動術、転子間彎曲内反骨切り術、転子間外反骨切り術、大腿骨頭回転骨切り術などを、実際の手術を通じて教授し、日本のみならず世界における股関節外科の発展に多大な貢献をした。 1989年(平成元)からは、厚生省特定疾患大腿骨頭壊死症調査研究班班長として、全国規模の研究を指揮・展開し、世界的業績を数多くあげた。股関節外科以外にも、膝関節におけるinterlocking wedge osteotomyの開発、生体力学理論に基づく橈骨や上腕骨の新しい骨切り術の開発、骨粗鬆症を始めとする骨代謝・軟骨代謝の研究など、数多くの業績を残した。平成7年の第13回日本骨代謝学会においては、会長として、当時社会問題となっていた骨粗鬆症に対して、整形外科の立場から新しい診断基準を提唱した。学会活動としては、1992年(平成4)に第65回日本整形外科学会学術集会会長を務めるなど、多数の国内、国際学会を主催した。 1995年(平成7)11月、杉岡教授は九州大学総長に就任し、大学全体の管理運営にあたった。2001年(平成13)11月6日、2期6年の任期を満了し退官。その後、九州労災病院院長として活躍。2003年(平成15)には第26回日本医学会総会会頭を務め、大成功に導いている。また、「運動器の10年世界運動」の日本代表を務められた。
杉岡洋一教授
図7 壊死部が、前方に位置する場合は、後方に残っている健常部を 荷重部に移動させる前方回転(ARO)、壊死部が中央から後方に 位置する場合は、前方の健常部を荷重部に移動させる後方回転 骨切り術(PRO)を選択する。

岩本幸英教授時代から今

第六代の岩本幸英教授は、1985年(昭和60)米国National Institutes of HealthへVisiting Associateとして留学した後、杉岡教授のもとで講師、助教授を歴任し、1996年(平成8)8月16日に教授就任、現在にいたっている。これまで教室で培われてきた各部門での伝統を継承しさらに大きく発展させると同時に、分子生物学などを駆使した新しい分野の開拓に積極的に取り組んでいる。専門の骨軟部腫瘍領域では、厚生労働省研究班の班長として、1998年(平成10)より悪性骨腫瘍の研究班、平成14年より悪性軟部腫瘍の研究班を組織し、全国レベルでの基礎的・臨床的研究を精力的に進めている。臨床面では、日本全域から多数の骨軟部腫瘍の紹介患者を受けており、これに対し先進的治療を行い、優れた治療成績を収めている。また、基礎研究では、悪性腫瘍の転移の分子機構解明に精力的に取り組み、今や腫瘍浸潤能を定量化する世界的標準実験法となった、Matrigel in-vitro invasion assayを世界に先駆けて開発するなど世界的な業績を数多く挙げている(図8)。 Ewing肉腫に関しても、その発がん機構の解明と治療法の開発を進め、先駆的な業績をあげ、世界からも注目を集めている。また、2000年(平成12)より厚生労働省研究班の班長として、全国レベルで高齢者の骨関節疾患の研究を推進した。この他にも、大腿骨頭壊死症の病態解明とその予防法を中心とした研究、膝関節外科領域においては新しい人工膝関節の開発やバイオメカニクス解析を駆使した研究などがなされている。さらに、破骨細胞の機能や血管新生に注目した関節リウマチに関する研究、骨形成因子や成長因子を含む骨折治癒に関する研究、手の外科領域における新しい腱縫合法の開発など、学際的な研究を精力的に推進しており、国内はもちろん世界をリードする研究が数多く行なわれ、国際学会を含む各関連学会での受賞者も多数輩出しており、臨床のみならず基礎的研究においても世界的な注目を集めている。 さらに、2002年(平成14)には、整形外科病棟がこれまでの西病棟(3、4階)から新病院の南10階病棟に移転するという大きな移動があったが、極めてスムーズに移転を完了させた。 2008年(平成20)からは、九州大学病院副院長、九州大学総長補佐を併任するなど、病院や大学全体の管理、運営にもその秀でたリーダーシップを大いに発揮している。また、九州大学整形外科学教室開講百周年にあたる2009年(平成21)に第82回日本整形外科学会学術総会を会長として福岡で開催、同年11月には開講100周年記念国際シンポジウムを開催し、当教室を大きく飛躍発展させている。
岩本幸英教授
In vitro invasion assay
図8
In vitro invasion assay Boyden chamberに設置した多孔性フィルターの上に、EHSマウス肉腫より抽出した基底膜成分であるMatrigelをコーティングする。フィルター上には生物学的活性をもつ基底膜が再構成され、chamber上部の細胞が通過する際のbarrierとして働く。下層に適当な走化因子が存在すると、プロテアーゼによってMatrigelを分解した細胞がフィルター下層へと移動し、これを計測する。腫瘍細胞の浸潤能の評価法として、世界で最も頻用されている実験系である。
日本整形外科学会80年史 pp395-400,2006に記載された、九州大学大学院医学研究院臨床部門外科学講座整形外科学分野の内容を編集し許可転載 九州大学整形外科学教室 開講百周年記念誌より転載