TOP - 教室紹介 - 教室の沿革
講座開設当初まで
日露戦争が集結しポーツマス条約が結ばれた翌年の1906年(明治39)4月5日、日本で初めての整形外科学講座が東京帝国大学医学部に開設された(勅令第68号)。初代教授は田代義徳先生(42才)であった。同年4月23日には、京都帝国大学京都医科大学にも整形外科学講座が開設され(勅令89号)、初代教授は松岡道治先生(東京大学より赴任、36才)であった。
この2校に引き続き、日本で第3番目に整形外科学講座が開設されたのが九州大学である。その前身は、1886年(明治29)6月22日に設立された県立福岡病院で、同病院はその後、1903年(明治36)3月24日、勅令第54号により創設された京都帝国大学福岡医科大学として引き継がれた。
早くから整形外科講座の新設を積極的に進めていた大学当局は、東京帝国大学、京都帝国大学に整形外科が設置されたのと同年の1906年(明治39)8月17日には、候補者として東京大学医学部佐藤外科助手であった住田正雄をまず外科学助教授として招聘し、9月7日、住田は外科学第二講座の分担を命ぜられた。そして、その3年後の1909年(明治42)5月24日、九州大学に整形外科学講座が設置された(勅令第142号)。東京大学、京都大学での設置から3年後、伊藤博文がハルビンにて暗殺されたのと同年のことであった。

設置当時は、住田はドイツ留学中であり、最初は三宅速(はやり)、中山森彦両外科学教授が整形外科学講座を分担した。1911年(明治44)4月1日には、九州帝国大学医科大学整形外科学講座と名称が変更となり、翌1912年(明治45)7月17日、ドイツ留学より帰朝した住田正雄助教授が初代教授(34才)となった。
実質的な整形外科外来診療が開始されたのは1913年(大正2)1月15日であった。しかし当時は、教室とは名ばかりで、最初は旧病棟の2室しかなく、医局員も3名に過ぎなかったという。なお、第一例目の手術は1913年(大正2)1月16日に住田教授執刀で行なわれ、31才男性の腓骨膿瘍に対する掻爬術であった。
当時は、病院の拡張工事に予算がつかず、病室もない状態であり、大学総長の許可を得た上で市内の開業医の病室を借用していたという。同年12月8日皮膚科教室が新築移転となり、皮膚科の建物に、整形外科の教授室、研究室、医局、図書室等が入り、30名の入院患者を収容できる病棟(西三病棟)が開設された。その後、1916年(大正5)に耳鼻科が新築移転したのでその病棟を利用することができることになり入院患者を55名収容できるようになった。この時点で、これまで市内の病院に預けていた患者を全て大学へ収容できたという。
開講以来 100 年間の手術台帳が教授室に保管されている。第一例目手術は上記のように記載されている。
開講13年後、診療開始からは9年後の1922年(大正11)の教室員は、住田教授以下、助教授浅田為義(九大病理学教室出身)、講師内藤三郎(九大卒業)、助手阿部恭一(九大卒業)、別所正恭(名古屋医大出身、住田正雄先生御親戚)、名倉英二(九大卒業)の5名に加え、大学院生伊藤久治、海軍軍医学校より内地留学の鈴木諒、松本暢両海軍軍医少佐の総勢8名であり、教室にはマッサージ師は在籍していなかったという。この8名という人数は、当時整形外科学教室のあった東大、京大、九大の3大学のうちで、九大が随一であり輝かしいものであった。その当時、日本では整形外科学教室への入局はなかなかなく、一年間に一人の入局者があればよいほうであったという。さらに、日本整形外科学会は、まだ独立した学会としての活動はしておらず(1926年(大正15)4月に独立)、日本外科学会の一小部会として存在しており、整形外科の演題は外科学会3日間の最終日に、整形領域の演題のみが並べられる程度であった。1923年(大正12)になり、東京で最初の整形外科集団会が開催されている。
住田正雄教授時代(1912-)
初代の住田教授は明治41年より3年間ドイツのLeipzig大学に留学し、関節外科はProfessor Erwin Payer、整形外科学をHoffa、骨病理学をKaufmannに学んだ。帰国後教授に就任し、整形外科学講座を担当した。整形外科診療開始後は、関節結核や脊椎カリエスの診断・治療に関する研究、ドイツ留学以来引続き行なわれていた骨系統疾患に関する研究、骨折や腱損傷に関する研究の他、骨移植に関する先駆的な研究を数多く行なった。また、関節授動術の研究をライフワークとしており、当時、化膿性関節炎などによる関節拘縮や強直はその発生頻度が高く、不動性の関節に可動性を与えることは極めて困難な時代であった。住田教授は、多数の自験例をもとに、強直した関節端を切除し、再癒合を防止するために遊離大腿筋膜を中間膜として挿入する方法を確立した。さらに、生体力学の重要性についても認識しており、工学部との共同研究をその当時から行なっている。その他、教室附属の工作所を設け、九大独自の治療装具の作成を行うなど、卓越した先見性を発揮した。
12編の論文からなる記念論文集
1923年(大正12)1月15日に開講10周年記念論文集を出版することになり東京の出版社に依頼していたが、折しも関東大震災にて被災、工場が破壊されたため、その翌年の1924年(大正13)11月に12編の論文からなる記念論文集を出版した。住田教授は1925年(大正14)8月、いわゆる九大特診事件のあおりを受け辞職、同年8月28日、その後任に浅田為義助教授があたった。その2日後の30日、附属病院の火災により、整形外科学教室は病室及び外来を残し、教授室、助教授室、医局、図書室、研究室、標本室等全て猛火に包まれ、貴重なる図書、記録、標本、機械等の大部分が粉塵に帰してしまった。浅田先生は、火災後の応急処置に尽力されたが、翌年4月、海外留学の途についた。
神中正一教授時代(1926-)
1926年(大正15)5月5日、第二代教授として神中正一先生が講座を担当した。その後、1950年(昭和25)に退官するまでの約25年間は、第2次世界大戦をはさんだ苦しい時代にあったが、ドイツ一辺倒であった当時の整形外科学に、フランス、イタリア、英国、米国の整形外科学を取り入れ、真の日本整形外科学を確立することに邁進し数多くの業績を残した。住田教授以来の教室の伝統である関節形成術においては、新しく開発した中間挿入膜JK(神中・河野)膜による術式を確立した。また、骨折治療の近代化、脊髄・脊椎外科、股関節外科、義肢、身体障害者の職業訓練、整形外科治療器材の開発、など整形外科学全般にわたり膨大な業績を残した。これらの業績は、「神中骨折治療学」、「神中整形外科学」、「神中整形外科手術書」、という著書として執筆されている。特に、「神中整形外科学」は今日においても改訂が重ねられ、我が国の整形外科医のバイブルというべき大著である。
神中整形外科学 初版(昭和15年発刊)
その他、昭和25年には学士院会員に推挙せられ、日本整形外科学の発展に寄与した功績がたたえられた。また、昭和11年4月に、神中整形外科教室10年史の中で、神中教授は「整形外科学の現在及将来に就て」と題して、整形外科学の日本語々源からふれられ、運動器外科と整形外科、外傷医学と整形外科、不具児童療護事業と整形外科、運動医学と整形外科、などについて将来を展望している。また、教室開講25周年記念の同窓会誌の中で新入局者歓迎会上の挨拶として、力と徳の滋養を切望しておられ、そのために以下の4カ条を挙げている。
「いつ迄も好学の精神を捨てない事」
「思索を怠らぬ事」
「全力を打込む熱と忍耐」
「精確なる観察と洞察力を養成すること」
これらはいずれも、今の時代にもあてはまる貴重な教訓である。
天児民和教授時代(1950-)
第三代の天児民和教授は、1945年(昭和20)新潟医科大学第二代教授として赴任していたが、1950年(昭和25)10月15日に九州大学整形外科教授が発令となり、同年11月20日着任した。整形外科学に脊髄損傷とそのリハビリテーションを含めた脊椎・脊髄外科をとりいれ、半月板を中心とした膝関節外科、骨系統疾患、骨軟部腫瘍や脊髄腫瘍など整形外科全般にわたり数多くの業績をあげた。また、当時ほとんどおこなわれていなかった骨、軟骨、筋組織の基礎的研究に道を開き、骨形成因子に関する広範かつ先進的な研究、リハビリテーションへの工学の導入など時代を先取りする新しい分野も開拓した。更に、昭和28年には骨誘導の研究から我が国最初の同種骨移植のための骨銀行を設立し、骨欠損を伴う疾患の治療に大きな進歩をもたらした。
整形外科と災害外科の第一巻(昭和26年発刊)
また、天児教授は行政的にも卓越した手腕を発揮し、着任早々の1951年(昭和26)6月には、今日の西日本整形災害外科学会の前身である西日本整形災害外科集談会を創設し、学会誌「整形外科と災害外科」を発行して西日本地区における整形外科学の普及と発展に貢献した(図5)。また、全国に先駆けて骨腫瘍、骨系統疾患の登録制を敷き、今日の全国登録制の先鞭となった。さらに、1957年(昭和32)7月には日本手の外科学会を創設し、日本における本分野の発展に努力した。さらに、日本整形災害外科学研究助成財団の設立、西日本各地区の肢体不自由児施設の設立など、後生に残る多くの事業を成し遂げた。1960年(昭和35)には、教室開講50周年を記念して、業績集の英文独文誌を作成している。
西尾篤人教授時代(1969-)
第四代の西尾篤人教授は、1954年(昭和29)6月に鳥取大学医学部整形外科の第三代教授として赴任していたが、1969年(昭和44)6月16日に九州大学教授として着任した。着任時は、折悪しくも全国的な学園紛争の最中であり、九州大学も例外ではなく極めて困難な状況下にあった。しかしこの中で教室をまとめ臨床・研究・教育の3つの柱を一時も停滞させることはなかった。
鳥取大学教授時代すでに多くの独創的な研究成果を挙げていたが、教授の終生のテーマであるペルテス病を中心に変形性股関節症などの股関節外科の領域においては、新しい治療法を世界に先駆けて考案した。中でも、寛骨臼移動術の開発は特筆されるべきものであり、今日においても臼蓋形成不全に対する標準的術式となり、寛骨臼回転骨切り術のルーツは本術式にある。また、転子間彎曲内反骨切り術の考案や表面置換型人工関節の開発も偉大な業績のひとつである。
寛骨臼移動術は、寛骨臼を球状に掘り出し、これを主に前外側に 移動させることにより骨頭の被覆を改善し、関節症の進行予防を 目的とした画期的な手術法である。今日、広く行われている寛骨臼 回転骨切り術も、その基本的な概念は本 術式にある。(西尾篤人教授退官記念業績集より引用)
その他、内反肘変形に対する矯正骨切り術、肩鎖関節脱臼に対する鎖骨骨切り術、陳旧性モンデジア骨折に対する尺骨骨切り術など数多くの独創的な術式を生み出し、後の整形外科の発展に多大な影響を与えた。更に、ペルテス病の病因解明や治療法の開発、離断性骨軟骨炎の発生機序の研究においても優れた業績を挙げた。学内においては、文部省科学研究費で得た新しい機器を設置して臨床各教室での共同利用が可能な臨床中央電顕室を設立した。
また、1975年(昭和50)より厚生省特定疾患に指定された特発性非感染性骨壊死症研究班において、初代班長として全国の班員を統括し、世界をリードする研究基盤を確立した。1982年(昭和57)に第55回日本整形外科学会会長を務めるなど、多数の学会も主催した。
杉岡洋一教授時代(1983-)
第五代の杉岡洋一教授は、1970年(昭和45)に米国ペンシルバニア大学に留学した後、当時の西尾教授の下、講師、助教授を歴任し、1983年(昭和58)8月1日九州大学整形外科学講座教授に就任した。西尾教授の薫陶を受けた杉岡教授は、股関節外科を中心に引続き研究を精力的に押し進め、特に、ライフワークとする大腿骨頭壊死症の基礎的及び臨床的研究においては、世界の第一人者であることは論を待たない。中でも、杉岡教授が開発した大腿骨頭回転骨切り術は、Sugioka Osteotomy として世界に広く知られ、世界で最も権威ある整形外科手術書、「キャンベル整形外科手術書」に、日本人として初めて収載された術式となった。海外における講演・公開手術は23ヵ国、60大学に及び、難易度の高い本術式をまさに世界中に広めた。また、変形性股関節症に対する転子間外反骨切り術を開発した。本術式も、従来の術式の欠点を見事に克服した優れた術式として広く知られている。教室においては、骨切りワークショップを毎年開催し、全国から参加した多くの医師に、教室が開発してきた寛骨臼移動術、転子間彎曲内反骨切り術、転子間外反骨切り術、大腿骨頭回転骨切り術などを、実際の手術を通じて教授し、日本のみならず世界における股関節外科の発展に多大な貢献をした。
壊死部が、前方に位置する場合は、後方に残っている健常部を 荷重部に移動させる前方回転(ARO)、壊死部が中央から後方に 位置する場合は、前方の健常部を荷重部に移動させる後方回転 骨切り術(PRO)を選択する。
1989年(平成元)からは、厚生省特定疾患大腿骨頭壊死症調査研究班班長として、全国規模の研究を指揮・展開し、世界的業績を数多くあげた。股関節外科以外にも、膝関節におけるinterlocking wedge osteotomyの開発、生体力学理論に基づく橈骨や上腕骨の新しい骨切り術の開発、骨粗鬆症を始めとする骨代謝・軟骨代謝の研究など、数多くの業績を残した。平成7年の第13回日本骨代謝学会においては、会長として、当時社会問題となっていた骨粗鬆症に対して、整形外科の立場から新しい診断基準を提唱した。学会活動としては、1992年(平成4)に第65回日本整形外科学会学術集会会長を務めるなど、多数の国内、国際学会を主催した。
1995年(平成7)11月、杉岡教授は九州大学総長に就任し、大学全体の管理運営にあたった。2001年(平成13)11月6日、2期6年の任期を満了し退官。その後、九州労災病院院長として活躍。2003年(平成15)には第26回日本医学会総会会頭を務め、大成功に導いている。また、「運動器の10年世界運動」の日本代表を務められた。
岩本幸英教授時代(1996-2016)
第六代の岩本幸英教授は、1985年(昭和60)米国National Institutes of HealthへVisiting Associateとして留学した後、杉岡教授のもとで講師、助教授を歴任し、1996年(平成8)8月16日に教授就任した。これまで教室で培われてきた各部門での伝統を継承しさらに大きく発展させると同時に、分子生物学などを駆使した新しい分野の開拓に積極的に取り組み、多大なる成果を挙げた。専門の骨軟部腫瘍領域では、厚生労働省研究班の班長として、1998年(平成10)より悪性骨腫瘍の研究班、平成14年より悪性軟部腫瘍の研究班を組織し、全国レベルでの基礎的・臨床的研究を精力的に進め、今日まで継承・発展し続けている。臨床面では、日本全域から多数の骨軟部腫瘍の紹介患者を受けており、これに対し先進的治療を行い、優れた治療成績を収めている。また、基礎研究では、悪性腫瘍の転移の分子機構解明に精力的に取り組み、今や腫瘍浸潤能を定量化する世界的標準実験法となった、Matrigel in-vitro invasion assayを世界に先駆けて開発するなど世界的な業績を数多く挙げている。
Ewing肉腫に関しても、その発がん機構の解明と治療法の開発を進め、先駆的な業績をあげ、世界からも注目を集めている。また、2000年(平成12)より厚生労働省研究班の班長として、全国レベルで高齢者の骨関節疾患の研究を推進した。
In vitro invasion assay
Boyden chamberに設置した多孔性フィルターの上に、EHSマウス肉腫より抽出した基底膜成分であるMatrigelをコーティングする。フィルター上には生物学的活性をもつ基底膜が再構成され、chamber上部の細胞が通過する際のbarrierとして働く。下層に適当な走化因子が存在すると、プロテアーゼによってMatrigelを分解した細胞がフィルター下層へと移動し、これを計測する。腫瘍細胞の浸潤能の評価法として、世界で最も頻用されている実験系である。
この他にも、大腿骨頭壊死症の病態解明とその予防法を中心とした研究、膝関節外科領域においては新しい人工膝関節の開発やバイオメカニクス解析を駆使した研究などがなされている。さらに、破骨細胞の機能や血管新生に注目した関節リウマチに関する研究、骨形成因子や成長因子を含む骨折治癒に関する研究、手の外科領域における新しい腱縫合法の開発など、学際的な研究を精力的に推進しており、国内はもちろん世界をリードする研究が数多く行なわれ、国際学会を含む各関連学会での受賞者も多数輩出しており、臨床のみならず基礎的研究においても世界的な注目を集める原動力となった。
さらに、2002年(平成14)には、整形外科病棟がこれまでの西病棟(3、4階)から新病院の南10階病棟に移転するという大きな移動があったが、極めてスムーズに移転を完了させた。 2008年(平成20)からは、九州大学病院副院長、九州大学総長補佐を併任するなど、病院や大学全体の管理、運営にもその秀でたリーダーシップを大いに発揮した。
主宰した学会は全国規模の学会から地方会に至るまで総数14回にも上った。特に、九州大学整形外科学教室開講百周年にあたる2009年(平成21)に第82回日本整形外科学会学術総会を会長として福岡で開催、同年11月には開講100周年記念国際シンポジウムを開催し、当教室を大きく飛躍発展させた。

本邦の整形外科学のバイブルである「神中整形外科学」を2004年と2013年に改訂し、全国の整形外科医に最新知識を提供した。
日本整形外科学会においては、理事を10年間の長期にわたり務め、2011年5月~2015年5月には理事長として本邦の整形外科学をリードした。目前に迫った新専門医制度の構築が重要な課題であったが、未来への道筋を見事につけることに成功した。また、ロコモティブシンドロームの認知と啓蒙活動にも従事し、在任期間中に世間におけるその認知度を倍以上の数字に伸ばした。さらに世界の主要な整形外科関連の学会すべてに理事長として招待され、日本整形外科学会の国際化や競争力の向上に多大なる貢献を果たした。

このように足掛け20年にわたり学内外で広く重責を果たし、2016年 (平成28年)3月、教授職を退職した。
error: Content is protected !!